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「日本画 麻田鷹司」
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日本画 麻田鷹司

麻田鷹司

麻田鷹司(あさだたかし)は1928年(昭和3年)に京都市で生まれた日本画家です。その作風は伝統的な大和絵の趣を現代的なタッチで表現し、戦後の美術界に確かな足跡を残しました。父の麻田辮自は日展(日本美術展覧会)で活躍した日本画家であり、母もまた日本画を学んでいたためであろうか、迷うことなく日本画の道へ入っていきました。1948年(昭和23年)に大阪で開かれた第1回創造美術展に入選しましたが、当時はまだ京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)に在学中のことであり、その才能が若くして開花した作品でもあります。それ以来、新進気鋭の集まる創造美術会を主な舞台にして、革新的な日本画を描き続けて行きました。特に初期の題材は裏日本の風景のものが多く、渓谷や雪原、荒天の海などをモノクロームな色調を土台に鋭い構図で描いています。1961年(昭和36年)に京都へ居を移してからは、生涯のテーマとなる京都の風景の連作に挑みましたが、志半ばで病を患い58歳の若さで早逝してしまいました。
 「僕は風景を写生するとき、足下から描くことを心掛けています 」という麻田鷹司の言葉を思い起こしながら作品を見てください。例えば「岩礁」では手前の足元に薄を配し、遠くに岩礁を置いた日本海を背景に置いています。まるで見る者をしてそこにたたずんで見る風景のように描かれています。
 また「最後の素描」と題した梶川芳友のエッセイの中に、麻田鷹司の好きであった言葉として「今日臨終」と紹介された下りがあるのですが、いつも今描いている絵が絶筆となることを覚悟していたようです。死後アトリエで発見されたスケッチブックは御室の桜の素描で終っているが、そこにもスケッチをした日付と時刻までが記されていたといいます。亡くなる1年ほど前には、梶川に向かって「私が死んだら御車返の屏風を枕元に置いてほしい」と言い残していたといわれています。そのころすでに生命の終焉を覚悟しながら画業に立ち向かっていたものと思われ、胸が熱くなる思いでもあります。葬儀の枕頭には遺作「名木御車返」が置かれていたといいますが、その花びらは散ることもなく光輝いて描かれています。

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